ぼくの愛読書に三島由紀夫の『若きサムライのために』という本があります。
その本に容赦なくサイドラインを引くのが、この世の唯一の趣味です。
三島由紀夫さんが生きていたら、喜んでくれるかなあ。
三島本人もある作品のこんな重要なところにサイドラインを引き忘れていた、
みたいなことを言っているから、同じようにサイドラインを引いていたのだと思います。
そんな三島由紀夫氏の小説は、一度も読んだことがありません。
古本の『金閣寺』が書棚に眠っているだけで、いつまでも眠っています。
三島氏が永眠したように、あの『金閣寺』はその存在感を残したまま永眠する可能性もあります。
ここからは、三島由紀夫がその著書「若きサムライのために」に書いた
『信義について』という評論というかエッセイのようなものについて書きます。
「最近は、若者は時間や約束なんかを守りませんな」と三島は言います。
確かに約束や時間は、軽んじられることが多いと思います。
ぼくの友人Kは、時間にルーズで中学生の頃、部活にいつも遅刻してきた。
そこで、ぼくと一触即発の場面になったこともありました。
む、時間なんてものは、まったく無意味だな。
ぼくの友人のYムネは、少し嘘をつくので、約束がダメになったことがありました。
約束なんてものは、大したものじゃないな。
そんなことを、子どもながらに、いや、大人となった今、
後付して子どものぼくの思考に乗せて見るのです。
そんな時間と約束について三島は言います。
「本来時間それ自体無意味なものであり、約束もそれ自体はかないものであればこそ、そこに人間の信義がかけられるのである。」
約束や時間は無意味だけれど、
それを軽んじず、本来それを守ることを義務とするのが、
人間のあり方なのではないか、と言っているのです(ほとんどそのままですが)。
ただ、ぼくは時間や約束は守る方だと思っていましたが、
この「信義について」を読んで、意識的に、
この問題には信義がかけられるな、と思うようになったのです。
そして、最近、ぼくは人を褒めました。
偉そうにではなく、尊敬を込めて褒めたのです。
それはあの時間にルーズな友人Kをです。
彼は以前逢ったときに
『俺、これからはもう「死ねよ」とか「死ねばいいのに」とか「世界よ滅びよ!」なんて言わないようにするよ』
とぼくと、それからK自身にも
約束したのでした。
ぼくとの約束であり、自分自身との約束です。
そして、昨日、彼、Kと電話で話した時に、俺まだあの約束守ってるぜ、と言ったのです。
口癖のように言っていた言葉を封印して、前向きになるということのこの素晴らしさ、
誰が賞賛せずにいられようか!
Kは最大の敵である己に打ち克ったのです。というか、まだ戦闘中ですが……
友人Kは、ぼくの中で『時間にルーズな男』から『ちょっとテキトウだが、信義に篤い男』となったのです。
すごいと思います。
死ねよ、死ねよ、と口癖にしていた人間が、
それをある瞬間からピタッと辞めて、
「わたしは正義のために生きるんだ(と言っているかどうかはわかりませんが)」、
と胸を張って生きている。
すごいことなんです。
ぼくは涙が出ます。
やると言ったことを意識せずとも、信義をかけて守っている姿に。
ぼくの友人にはそんなすごい友人がいるんですよ!
ちょっとテキトーだけど、信義に篤い男が!
ぼくも何か成さなければと思い、
先日連続であったバイトで頑張ろうとしたのですが、
焦ってしまったのでダメでした。
それが自分で思っていた以上に悔しくて、悲しくて、
しかも就活でのうまくいかない悔しさも重なり、
母と電話で話しているうちに泣いてしまったのです。
涙と鼻水でじゅうたんがカピカピになってしまいました。
普段、病気で寝てばかりの人間が急に
踏ん張って働くぞ、と言って、勇ましく立ち上がり、
戦いの扉を開いても、
うまくいかないものでした。
ガード不能なところから、攻撃された感覚でした。
力が入らないんです。
社会不安障害という病のために、声が出ないんです!
赤面するし、過呼吸になるんです!
それすべてが悔しかった!
落ち着こう
ぼくは今のところ自分に決めたことはありませんが、
前向きになろうとしています。
毎日がそうではありませんが、
今日一日はこう過ごす、と今日だけを生きています。
今日だけは生きると思って、先は見ません。
そうすると、気持ちも楽になって、こうしてブログも更新できる訳です。
それから、死にたい、とこれからも言うと思いますけど、
それは気を休める言葉で、ぼくにとっては重要な言葉なのでまだ辞めません。
死にたい、ただ今日だけは生きます。
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